千種高等学校ブログ  Vol.Ⅱ

 本日の千種高校

50年前の千種川大水害写真・資料

今から50年前の昭和38年7月11日に、この千種町で大水害が起こったということは、7月~8月の「千種町立体ハザード模型」の製作や測量実習に関する本ブログの中で度々言及させていただきましたが、この度地元千種町千草にお住まいの尾関豪一様(千種分校第1期生、80歳)に水害当日の写真やその後の資料(新聞記事や広報ちくさ)をお借りすることができました。水害の当日に尾関様がご自身で撮られたものですので、お許しを得て広く公開させていただき、今年度本校が中心となって取り組んでいます「千種災害対策プロジェクト」や11月23日(土・祝)に開催する「地域連携総合防災訓練」及び「木造仮設住宅公開建築」の意義について考えるための貴重な資料とさせていただきます。


                千種町中心部の川の流れ(昭和37年頃 左荒神橋 右室橋方面)
   
      荒神橋(改修前、昭和37年頃)                荒神橋(改修後、昭和39年頃)
   
    三室山方向(奥の白い建物が千種高校)                 商店街北部の様子
   
        林歯科医院裏の岩野辺川                眞西橋上(千草駐在所前、消防団が活動中)
   
          商店街中部の様子                       南小学校に迫る激流
             
清瀬一郎衆議院議長視察(神戸新聞 昭和38年7月19日)        広報ちくさ(昭和39年2月20日)

平成25年が、この大水害から50年目に当たるなどということは、4月に「千種災害対策プロジェクト」に取り組むことを決めた私たちは全く知りませんでした。現在60歳代の方も子どもの頃。ましてや50代の方は何とかうっすら記憶にあるか否かというところですので、7月24日の測量実習を伝える翌日の新聞記事をご覧になって寄せて頂いた、元千種町教育長・上山明様の証言がきっかけとなって何とか当時の写真等が残っていないかどうか調べたのですが、幸い高校近くにお住まいの尾関様がご自身で撮られた写真をお持ちだということで、つい先日27日(日)の「ふるさと芸能大会」の後お借りいたしました。改めてお礼申し上げます。また、今回公開させていただいた写真は商店街を中心としたものですので、もし他の地区のお写真をお持ちの方がおられましたら、千種高校までお知らせいただければ幸いです。

第7回インプロ学習

本日、第7回目のインプロ学習が行われました。今回のテーマは、『協力』です。

1年生はグループを作り、仲間で力を合わせて好きな形を表現する練習をしました。

  

2年生と3年生はグループで協力し、音楽に合わせて好きな形を表現しました。

仲間と共に協力をしながら、何かを表現する。
難しい作業ですが、各学年楽しみながら表現する力を高めあっていました。

4月に始まったインプロ学習も残すところあと1回となりました。
当初は、思うように自分を表現することをができない生徒が多数でした。
しかし、今では仲間と協力して思いを伝えることができつつあります。

最終回では、どのような形で思いを表現してくれるのかが楽しみです。

第6回インプロ学習

本日、第6回目の「インプロ学習」が行われました。本日のテーマは、全学年共通で「身体を使った協働作業」です。

  

最初にお題が与えられ、生徒たちはそのお題に沿ったことを、体を使って表現します。写真は、左から「戦車」、「洗濯機」、「アメリカ」をお題にしたものです。生徒たちは試行錯誤しながら、楽しく取り組んでいました。次回の授業も楽しみです。

球技大会

本日、球技大会が行われました。種目は、男子はサッカー、女子はバスケットボールです。

  

  
 
各学年2
チームをつくり、計6チームで試合を行いました。バスケットボールでは圧倒的な強さで3年生が決勝戦まで勝ち上がりました。一方、サッカーで決勝戦まで勝ち上がったのは1年生と2年生でした。惜しくも1年生は敗れてしまいましたが、チームワークの良さが表れた試合だったと思います。暑い中でしたが、生徒たちはよく頑張ってくれました。


千種高校歴史紹介シリーズ⑥ 

千種高校歴史紹介シリーズ⑥ 「千種高校独立記念庭園」

千種高校内の庭園と言えば、平成4年に整備された「中庭」が最もよく知られており、40歳代以上の卒業生の方々ならば、「ああ、昔ここにテニスコートがあったなあ…」という感慨を抱かれるのではないかと思います。また、「歴史紹介シリーズ①」でも最後に付け加えましたように、現在の庭園の象徴「自主敬愛の道」の碑が、平成4年までは今の藤棚の北側あたりに西向きに建てられていたということも、昔の卒業アルバム等から知ることができます。

今回ご紹介するのは中庭ではなく、また、校訓碑の置かれている本館西側の植栽でもありません。生徒の皆さんは、特別教室棟の1階を通って体育館に向かう時に「ピロティ」と呼ばれるコンクリートの空間に出ますが、その壁の南側、つまり千種高校の敷地の未申(ひつじさる)の方向南西隅っこに、「富士山」形の岩を中心に据えた実に見事な「日本庭園」があるのを知っているでしょうか。5階建ての校舎に隠れてしまっていてわかりにくいのですが、形のよい数々の岩は苔むして、四季折々の草花が石庭の周辺に生い茂り、秋には秋の、また冬には冬の風情が漂う不思議な空間となっています。唯、いつ頃建てられたのでしょうか、電信柱が2本背後にあり、その景観を壊してしまっているのが非常に残念です。              

 

 

さて、この庭園は何のためにいつ頃造られたのでしょうか。上記の「中庭」等については記録が残っているのですが、この庭園については明確な記録が残されておらず、すべては校長室に保存されている歴代の「卒業アルバム」から推測した結果なのですが、これは「昭和50年に県立千種高校として独立を果たしたことを記念して造られた、独立記念庭園である」と結論付けました。現在の体育館が建てられたのは昭和45年3月。特別教室棟が完成したのは昭和56年10月。昭和49年のアルバムには、体育館西方は黒い土のままで何もありませんが、昭和51年(1976)3月卒業の方のアルバムには、次のような立派な石灯篭を配置した日本庭園の写真が残されています。この年以降のアルバムにこの庭園の写真を見つけることはできません。本当に貴重な記録写真です。そして、写真の後方に現在も残る富士山形の岩が写っているではありませんか。どの程度の面積を持つ庭園であったかはわかりませんが、昭和56年までは体育館の西方に存在し、特別教室棟の工事によってその大部分が切り取られてしまった、つまり、現存する隅っこの庭園は「千種高校独立記念庭園」の一部であることは間違いありません。



しかし、何と美しい形をした富士山形の岩なのでしょうか。周りの石の配置によって、私たちは中心であるこの岩に導かれ、思わず手を合わせたくなるような気持にさせられます。昨日のブログでも紹介した「笛石山(千種富士)」がここ千種にはあるということ。そして、この岩が配されている方向を考えると、以前に校訓碑を紹介した折りにも書きましたように(歴史紹介シリーズ②)、妙見社或いは後山(うしろやま)や日名倉山を向くように据えられていますので、この庭園ひいては千種高校の建設にも、自然豊かなこの千種の地に対する感謝の念及び山々や清流千種川への信仰心が働いているのではないかと思います。エジプトのピラミッドやカンボジアのアンコール・ワット等世界遺産の例を待つまでもなく、現存する遺跡等を目にすると「誰が、どんな情念でこれを建てたのか?」という疑問が湧いてきます。この富士山形の岩を中心とする築庭とて、一体誰が如何なる思いで造られたのでしょうか。興味が尽きません。
                      
昭和50年といえばそれ程古い話ではありません。必ずやこの日本庭園造園の経緯に詳しい方やこの庭園を設計された庭師・造園師の方がおられるはずですので、何かご存知の方がおられましたら、是非とも本校までお知らせいただきますようお願い申し上げます。